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第8回哲学カフェ 活動報告

2019年10月31日(木)

世話人:横田仁​、木本周平、角田健太郎

進行:木田直人

 2019年10月31日、第8回哲学カフェが開催されました。今回は、あまりの盛況のため、大きい教室に場所を移しての開催となりました。今回特筆するべきは、参加者の幅がいっそう多様化したことです。前回(第7回)に街中・哲学カフェをしたことの影響で、首都大生以外の方々にご参加いただきました。なんと中学生の参加もあり、大学生に交じって深く哲学していたことが印象的でした。さて、今回のテーマは次の三つです。

 ①近しい人が自分の価値観と合わないとき、どうしたらいいのか?
 ②感情(or考え方)は言語によって決まるか?
 ③平等は存在しうるか?平等とは何か?

 ①はかなり身近かつ深刻な問題と捉えていたグループが多かったようです。とくに親の干渉というリアルな問題が浮かび上がり、しかも親のほうは干渉と捉えていない傾向があることが指摘されていました。なぜ親は干渉してくるのかという問題については、親は子どもと分かり合えて当然という前提をもって接触してく
るからだという発言がなされ、そこから親近感や同族感の幻想こそが干渉のもとではないかという一般論へと進んでいるグループもありました。親子といえども他人どうしだという自覚が親にあるべきということですが、さて、現実の親はこの結論を受け入れることができるでしょうか。また、親子の対立の理由として、親が社会の道徳観を自分で咀嚼することなく子にも強制してくる点が指摘されていました。倫理観は他に学ぶのではなくみずから獲得するべしということでしょう。なかなか深いです。
 ②は哲学の一大テーマです。まず、感情は動物と共通のものか、感情は人間に特有のものかをつうじて議論が始まっていたグループがありました。もしも言語によって感情が決まるとするなら、動物には感情はないことになるからです。動物に感情があるのかどうか、これはせいぜい外部からの観察によって推測するしかなく、決定的なことは言えませんが、しかし人間がやはり細やかで豊かな感情をもっていそうなことは間違いなさそうです。喜怒哀楽、とくに哀しみは多くの小説や映画の最低音部で鳴り続ける、人間の文学活動の源泉であるような気がします。犬は獲物の臭いには敏感なのに、花の匂いを立ち止まって嗅がないのはどうしてでしょうか。「花より団子」と言いながら、人間は桜を待ちわびて仕方がないのはどうしたわけでしょうか。行動文脈と切り離されたものを問題にしうる能力が人間に備わっているようですが、これが言語とどう関係しているのか、大きな探究課題でしょう。
 ③もまた難しい問題です。平等など存在しない、とあっさり片づけてしまいたくもなるのですが、しかし存在もしないなら、なぜ我々はここまで平等を気にしながら生きているのでしょうか。男女機会均等、貧富の格差是正、婚外子差別撤廃、LGBTの差別反対等、我々の社会運動のほとんどは、平等を目指していると言ってもよいほどです。では目指された平等とは何を指すのでしょうか。LGBTの人に、たとえば婚姻を認めることが平等になるのでしょうか。これはむしろ当事者の特殊性を、いわゆる「ノーマル」な形態へと強要することになるかもしれないという懸念が提出されていました。必要な平等とは、皆をひとしなみに扱う平等というよりは、むしろ個別性をひとしく尊重するという平等だというのです。この意味での平等とは、むしろ等しく扱ってはならないという意味になります。難しいですね。
 大きな教室での開催だったとはいえ、今回も全席が埋まるほどの盛況でした。ますます盛り上がる哲学カフェ、次回のご参加もお待ちしております。

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